おとといニュースで神戸の阪神大震災の慰霊黙祷が中継されていた。
あれからもう13年も経つのかという感慨がある。
僕は今、会社の都合で関東に住んでいるのだけれど、13年前はまだ大阪にいて、1995年の4月に神戸で結婚する予定で、準備に大忙しだった。
なぜ神戸かというと、婚約者と知り合ったのが神戸だったから。
挙式は神戸の下山手教会、披露宴は嫌だったので食事会ということで、トゥール・ドールで行うことにし、予約も完了していた。
新居は西宮のとある賃貸マンションに決め、手付けを支払ったのが1994年12月だった。
1995年1月16日は休日なので終日、神戸のモザイクや灘のアクタスに什器や家具などをチェックしたりしていて、大阪の自宅に帰ったのは17日0時近くだったと記憶している。
その5時間46分後。
まず地震が起きる前に、「ゴゴゴゴ」という地鳴りで目が覚めた。その数秒後ものすごい揺れがきて、30秒くらい目の前がかすんだ。
初めての経験だった。
起きると、部屋のたんすに積んである箱などが落ちていた。
台所に出ると、冷蔵庫は専用の置き台の上に載っているのが半分ずれて傾いていた。なぜか食器棚の食器類は割れていなかった。
家族が無事なのを確認して、とりあえずテレビをつけ、NHKのニュースを見た。地図が表示され各地の震度が報告されたが、神戸の周りの震度が4~5で表示されているのに、なぜか神戸の震度だけが表示されていなかった。
婚約者の安否が心配になってきたので電話をしてみたが、ぜんぜんつながらない。
何回かかけ直してようやくつながった。話を聞くと、婚約者は無事だったが神戸の友達にはまったくつながらないという。
とりあえず最低の安否確認はできたので、再びニュースを見ると、阪神高速神戸線が倒壊している映像が映し出されていた。
また、鉄道は全線ストップしていて、復旧の見込み不明とのことだ。
これはえらいことだ。
その日は会社に行くのをあきらめ、翌日会社に出てみると安否不明の社員がいるとの事だ。その翌日、阪急が西宮北口まで復旧したので、安否不明社員の確認に行くことになった。
西宮についたが、現地は物凄いことになっていた。
古い民家や古いマンションが軒並み倒壊している。
電柱は倒れ、電線が垂れ下がっている。
異様にガス臭い。
安否確認はできたので、公衆電話で会社に報告しようとしたが、公衆電話は人待ちでものすごい列になっていたのであきらめた。
安否確認ができてほっとしたところで、今度は新居が気がかりになってきたので、ついでに確認することにした。見た目は大丈夫そうだったが、入り口のドアがゆがんでしまったようで開かない。よく見ると、入り口の4隅がひび割れているし、横にある窓の下もひび割れている。
また、水道も停止しているようで、マンションの人は、敷地内の散水栓から水をポリタンクにつめていた。
これはだめだ、大家と相談しなければいけないなと思いながら、現地を後にした。
その後どうなったかを列挙する。
<新居>
・そのままそこに住むことにした。
大阪に新たに探すことも真剣に考えたが、被災者が住居を大阪に移してくることが予想され、住宅を探すのが困難だと思われたため。
・ドア破損→1995年4月入居までには復旧。
・壁破損→入居後に復旧。
・ガス→居住区画内のガス管が壊れている→1995年3月くらいに復旧。
・水道→入居までに復旧済み。
<下山手教会>
・兵庫教会に挙式場所を変更。
・レンガつくりの立派な教会であったが、全壊。
神父さんが教会を指差し、「この有様です。」といった言葉が印象深く心の中に残っている。
・復旧の見込みはないとのことで、あきらめようとしたが、神父さんの特別の計らいで兵庫教会で挙式させていただくことになった。
<食事会>
・トゥールドゥールは復旧の見込みなし→食事会は取りやめ、予約はキャンセル。
その後は、結婚式は予定通り1995年4月に行った。
新居に関して、不動産屋さん、マンションのオーナーさんも直接の被災者でない僕たちに特別の配慮をしてくださった。
また神父さん自身も被災していて大変なのに、直接の被災者でない僕たちにいろいろな施しをしてくださった。
これが逆の立場(被災者の立場)なら、僕はこういう行動を取れただろうかと思うと、本当に頭が下がる思いだ。